萩通信-「水に流して」評

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 この記事とあわせてXmas の頃に上げたかったですね。でも、歌はいいですよ。ピアフを彷彿とさせる詩の内容ですが、大きくのびやかで、過去を断って生きようとする女性の決意が普遍的なものとして伝わってくる歌になっています。フイルムの状態が良くないのも妙に捨てがたい味がでています。表紙もいいです。女優よりも美しい人ですね。20-1.24
                        (萩通信-「水に流して」評 から)

水の滔々と流るが如し

R子様。
 私の妻も心房細動など體の至るところに疾患を抱えています。通院は欠かさず、医師の云う通りにしています。しゃっくりが出るので晩餐も一膳のみ、血栓が脳にいかないように加熱した水を一日中飲みます。膵臓に溜まった水はCTで定期的に監視します。脳梗塞、耳鳴り、骨粗鬆症、良いところを探すのが難しいですが、医師と看護師に好かれる少女のような女です。
 少女にも神に召される瞬間がいつの日か訪れます。その瞬間に立ち会わずに済ます一番の方法は自分が先に逝くことですが、私は九つも年下です。しかも7 1歳になるまで小さな病気すらしたことがないのです。困る事がほかにもあります。彼女は船場生まれの元いとはんです。仲の良い姉妹を含めて法事の好きな常識派が畿内にまだ多く生存しています。一族の中に、目を掛けてくれた上司の家に惚気(のろけ)か、お悔みかわからないような手紙を出したのがいると判ったらどうなるでしょう。私が坊主嫌いで、一億あっても葬式などするものかと考えてるのは妻も知りません。
 私の不幸は老いることを知らない美しい女を神から授かったことです。家にいるのが牛の糞のような女だったら別離もどれほどか楽でしょう。妻が分てくれる精神安定剤-ソラナックスなしでは眠れぬようになりました。地下1Fの良き昔には食後の一時(ひととき)にも爆睡できたのが嘘のようです。でも、心と體はリンクしないのでしょうか。眠れないと溢しつゝカラオケバーでは淡谷のり子vrの「夜のタンゴ」「小雨降る径」を歌い、喝采を浴びて帰るのですから。考えてみれば不眠症シャンソンは親戚のようなものですよね。妻のことにはナイーブになる私がいます。人の生き死にを滔々と水流るが如しと云う私もいます。群れを嫌うのも私です。この手紙をフェイスブックあたりに載せてみようかとも考えています。どれも私です。自分には退屈しない自己陶酔者なのです。もうお分かりでしょう、お悔みのようなつまらぬことには一分と我慢できないのです。この手紙も妻に云われて渋々書いています。できたら見せろと云われていますが、すぐ封をして投函します。

 故人は捨て子のように誰からも評価されることのなかった私を拾ってくれた恩人です。その恩に報いたという程ではないが、氏を失脚させようと秘書がこそこそしだした時でも、私は手を握るのを拒みました。この元秘書には氏が亡くなったことを知る資格はないでしょう。地下室で勤務してた幸運な二人のうち一人は既に亡くなっています。あと一人は氏がヒデミネーと呼んでいました。彼女は健診ではいつも優等を取っていましたし、自己管理に秀でたエゴイストですからまだ存命でしょう。痛風で、ことばのキャッチボールしかできない大きな子-故人とよく遊んでいました。少年が天国に召されたことを彼女は知っているでしょうか。R子様、いらぬことばかりで長くなりましたが、これで失礼します。武庫川の水の一滴にならぬよう何時までも元気でいて下さい。     2019-12.17  
 

夕凪の宿

    1990-11.23ホールhibari
  昨日の風は忘れよう。「夕凪の宿」との出会いに感謝しょう。私は何かあると音楽が駆け込み寺になる。悩むことの多い私が今日まで病気一つせずにこれたのも音楽という主治医の御蔭かも知れない。トマトの木には可哀想なことをしたが、素敵な出会いもあり、向かないと言われてきた私の體にも演歌の血がながれているのを知ることができた。

  

和歌山橋本にて

 逸子さんが音響音響とやかましいので先日和歌山の橋本を訪れました。地方紙にも出ていた音響で評判の店でしたが、一年前の記事だけを頼りにしたのが良くなかったのでしょうか。telしてもつながらず、地所というところで訊き、一緒に歩いてやっと真相が掴めました。さら地になっていたのです。経営者が高齢だという事も考慮すべきでした。そういう訳ですから、もう少し待って下さい。もう少し、と云ってるうちに此方もいい年になりますが。河内松原 →橋本 780円。

   

メランコリーMélancolie小論

 ■メランコリーMélancolie小論-谷脇女史のヴォーカルを参考にして
ふてぶてしく口をあけないでいい声出せるな、という印象。いい声である。メロンコリー(憂鬱)を歌うに適した怨世的な暗い声。酒に溺れ、失恋を引きずっている女の歌だから元気溌剌では困るが、弱々しいだけではない強い情念の迸る瞬時があっていい。その意味でも強いのはいいが、喉を広げぱなしの大声はいけない。エコーもまだ絞っていい。逆に刃を突きたてるように一気にいきたいのが《こいびとも》の部分。同じメロディーが二度つづいた後の、文でいえば起承→転。(高音がつづく)新たな局面の頭が「ソ」では刃にならないと見てか、越路も松尾和子もオクターブ上の「レ」から入っている。《こいびとも(略)いらぬ》とつづく、自棄というか情念の迸りにつながるところだからこの崩しは理に適っている。(ジャクリーヌ・フランソワは譜面のまま) 最後にもう一つ、彼女には色気がない。色は上等のものを資質として持っているが、表現力としての色気をこれから学ぶべし。ただし色気は二番目、三番目の仕上げ塗装であり、聴く人の耳にはシャンソンか、ただの自己陶酔かの区別はつく。良くないことばかり論ったが、声がいいのと、音が低めのビブラートは美しい。
 すでに四年たった、2015-5.27 投稿の作品である。今頃は私の見つけた原石も誰かの手で磨かれているかも知れない、とも思いながら。 
   

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心ここに有らず

となりの女が嘆いて云うには、亭主がごみになったそうである。
ごみ拾いではなく、自身がごみになったのである。
所得、肩書、愛人の数においても私を圧倒していた彼が
嘱託を退いてからは一日何もせずごろごろしてるというのだ。
耳寄りの情報に、暫し優越感にひたった。
自分はごみにならない自信があった。
なれない、といったほうが正しいかもしれない。
拙宅には私が鼠のごとく動き回ることで餓死を免れている女がいた。
彼女は七つの病を抱えて通院している。
重病だが、絶えずからだを診られているので私より永く生きられるはず。
私はもともと生への執着心が乏しい。
先日も久々に乗った電車で目を疑ったことがあった。
静かだから目に付いたのだが、斜向かいに五、六名の学生がすわっていた。
皆が皆俯いて黙々とスマホを触っている。
一人くらい何もしないで窓の外に目をやってる子がいてもよかったのだが。
こんな魅力のないコピー製品のような子らが
年を経た世に自分も生きる退屈さを思った。
ところで、妻は貧乏をしたことがない。
いとはんと呼ばれて谷町で育った女は皿を洗う時、水を出しながら泡を立てる。
泡と水がもったいないので私が厨房に立つことにした。
彼女は洗濯とテレビ観戦に専念させる。
一反の畑もあって結構忙しかった。
一年前の話である。

スルコトガナイ。

この奇妙な日本語を発信したのも私である。
することがない、とは実に情緒的な語彙である。
米を研ぎ、献立を考え、マーケット、野菜の研究、歌…
財布のひもまで握っていた私が暇であるとしたら、

それは心の問題というしかない。
一年の間に何があったのか。
トマトから撤退しただけで窓際族のような声色(こわいろ)をだし、
移住できないという哀しい出来事まで重なったとはいえ、
時計の針はこうも簡単に止まるものか。
>過疎の町は時計の針もゆっくり回るようです。
私が揶揄したのは吉野町の対応の遅れについてだったが、
携帯の着信音が一か月も鳴らない、
心の振子が止まったままの私こそ過疎の村ではないか。
ベランダに幾つかのプランターを並べただけでは忙しくはならず、
令和の声を聴いても瞬き一つせず、口角も上がらず、
口角が上がらないにしては立派な「夜のタンゴ」が
静かな私邸に一日中ながれている。
 

トマトは一に美しくあるべし。
二に出荷数。味
は評価の基準にならないという不思議な世界。私のトマトが1ケース千円を超えたのは仲買人への《施肥》が効いていた初年度のみ、以降右肩下がりに価格を下げていった。なにか不透明な力が働いてるような価格の下がり方に嫌気がさし、商いとしての農からの撤退を決めた。卸市場とケンカしたって敵いっこない。市場への不信感がでてきたら業界では生きていけないのだ。資金や援助があっても、詐欺紛いのハウストマトを作るつもりはない。暮れには畑を返却した。が、返せないものもあった。土への郷愁のようなものがそれだ。
地方へ行きたいと思った。
砂の女」を読み返して、仁木順平が昆虫のように嵌められた砂丘に想いをはせる。砂丘がいいのではなく、過疎地なら自分のようなものでも必要としてくれるイメージがあった。私がもう少し若ければその考えも誤りではなかっただろう。取り寄せたパンフレットが誘っているのは私のような枯れた男ではなかった。枯木には生殖能力がない。穴に嵌めても私では肥やしにもならないのだろう。過疎の町の優しくはない本音に触れてなお地方を歩いてみる脚は残っているか。大阪を離れたことがない女はどうする。朗らかだけがとりえの赤子のような女よ、君は今日も大邸宅の下女のようにリズムを取りながら、私が歌ったタンゴ の名曲 を自分でも口ずさむ。人々もまたその歌が一昨日録音されたものだと知って慌てて樹木医を呼ぶことを中止する。死にかけたやつがこんな良い声をだすはずがない、と。こうして私の叫びはだれにも届かず、捲り遅れたカレンダーほども顧みられることはなかったのである。

私はまだ枯れてはいない。
私が枯れてきたら妻は
喜ぶだろう。私の方が先に車椅子に乗ることになっても喜ぶだろう。診療も儘ならない僻地で暮らす不安を思えば、私の介護など苦労の内に入らないのかも知れない。ただ、久しく引越のことを言わないから御機嫌だが、今動くのは損だから静観してるだけで、コーナンから何袋土を購入したから、大工を始めたから移住を諦めたと考えるのはいかがなものか。農における醍醐味は土を耕すことと私は考えている。ひたい汗せず、耕さずしてどこに喜びがあるだろう。プランターでは私の想いは入りきらない。ほんとうの土の匂いを嗅ぎたい。
農への熱いこころざしを語った塾を出て七年、七年が七十年に思える程モチベーションの低下した現在でも、思いはまだ残している。自分が食べるだけの米を作って、自分たちだけの為に生きるという非生産的であるがゆえに私が一番嫌った生きざまだったが、すぐそこまで意地汚い笑みを浮かべて私を迎えに来ている。賢弟は私に迷走するな、静かに死んでくれと言った。瞑想はしないと答えたら、そっちの瞑想じゃないと哂わないで言った。また或る人からは水耕栽培をやって一株に一万個のトマトをつけてみろと哂って言われた。
一株に一万個のトマトをつけて町の著名人になるよりも、やはり私は土の匂いが忘れられない。(完)